2011/06/08

ニコ生思想地図の「福島から考える言葉の力」と中島監督の「告白」を並べたら見えてきたこと。


写真:合同会社コンテクチュアズのサイトより


5月28日に放送された、言論誌『思想地図β』編集長の東浩紀氏と福島在住の詩人である和合亮一氏による対談。テーマは、「福島から考える言葉の力」

ニコニコ動画を見ながら自分の興味を引いた部分を書き起こしてみました。

もっと簡潔にまとめてみようとも思ったのですが、お二人の言葉一つ一つに重みを感じたので、削ぎ落とすことはせずに、自分のメモをほぼそのまま載せることにします。

この動画を観終わった後に、中島監督の『告白』を思い出したのですが、その点については最後に少し述べてみます。

(冒頭では和合氏による詩の朗読があるので、それも含めてお二人の対談を見たい方はコチラへ)



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【対談の2つの軸】

東:

①言葉は軽くなった?解釈よりも数字ばかりが並ぶ。

②震災は人をバラバラにするもの?
一つにするよりもバラバラに。



【数字や情報以外の言葉を育てていくのをサボってきた】

東:

震災は一つにしない
各人の個人的な居場所や条件が浮かび上がって、バラバラになるのでは
情報というのは人をつなげるのに役立たない
シーベルトという言葉は情報として共有されているだけで、それによって人々の行動や価値判断は繋がらない

私たちは情報以外の言葉を育てていくのをサボってきた

人々を動かす言葉を僕は作れていない
そういう人はこの国に少なくなった

被災地の喪失感をどう伝えるか?
数字は有効だけど無力でもある
こういう大きな災害を受け止める文化的な強度を僕たちは無くしているのでは
それに対するリアクションが全部数字だけになってしまっている



【何かを吐き出し、共有し、共感しないと国がバラバラになる】

東:

自粛はあったが、自粛批判もあった
違和感があった
あれだけ大きなものが失われたのになぜ埋め合わせることだけ考えてるんだろう僕たちに必要なのは一定期間、欝になること
何かを吐き出し、共有し、共感し…ってプロセスがないとこの国はバラバラになるのでは

最初から「復興」っていうリアクションがばっと出てきた
この国の深い病理みたいなものがあると思った
思想地図の震災特別号やろうと思ったとき‥
喪失をテーマにする
埋め合わせるための言葉ではない何かの言葉を刻まないと、と思ったチェルノブイリについて語るようになり、ミリシーベルト、ベクレルの情報はあるが…
チェルノブイリの時にロシア人たちが何を考えたのか、どんな詩を読んだのか、どんな思想を考えたのか…というのがほとんどないそれが大きな喪失
それがわかれば、その上に私たちは物事を考えることができたはず
福島についてはそれを残すべきだと思った
福島の周りの人間が何を考えていたのかを残さないといけない数字ではなく言葉喪失をどう精神的に乗り越えたのかを残したい



お前にとって本当に大切なものってなんなの?】

東:

今回の震災
自分の起源を考えさせられる
お前って何者なの?お前にとって本当に大切なものってなんなの?多くの人はそれを付きつけられたのではないか


和合:

震災後
今までやってきたこと、どうでもいいや
こうしよう、という路線、コンセプトを考えてやってきたつもりだったが
読者のことまでどうでもいいや
感覚は、「どうでもいいや」



【ネガティブな一体感も重要】

東:

沈鬱であることは難しい
追悼も難しい
アッパーなコミュニケーションは一体になることができる
日本という国はアッパーな一体感しかノウハウとして知らない国だったのかなという気がポジティブな一体感
でもネガティブな一体感も重要なことでは

人間にとって何を意味するのか
もぎ取られたことについて沈鬱になることも大事では
価値観が違う人たちが大きな喪失への追悼で一つになること

死者を追悼することが苦手な国なのでは
亡くなった人、被災した人
これを間接的な死と考えると…
日本社会から失われた物の大きさをもっとちゃんと追悼しないと

和合:

追悼する、喪失感を受け止めるということが我々の文化の中に根本の部分で無いのかも
あったのかもしれないけどそれが削ぎ落とされたのか
喪失感を受け止めることをせずに、前に進むことのみが大切なような、そういうイデオロギーみたいなものが必ずあった



【絶望を語った上で希望を語ること】

東:

暗いこと
避難民の覚悟はもっと公になって共有されるべき
頑張ろうと思っている、町の復活を信じている…アッパーな言葉だけが公なものになってる
参ってるけどそれに触れないようにしてる
そうしたらどうやって喪失を共有できるのか?
絶望をくぐりぬけて希望を語る、ということができていない。

和合:

出口を見出す力は、絶望は絶望をきちんと語り、失望は失望をきちんと語らないと、言葉に力は生まれでない
「あきらめない」

「負けない」

それが絶望をくぐり抜けてでてきた言葉なら響く
絶望を語らない方法で明るい希望を語ろうと思っても語れない



【日本人の連帯のあり方】

東:

アッパーじゃなくてダウナーな連帯ってないのか

和合:

家族ではないんだけど家族を求めることはできるのかそういう連帯のあり方は絶望の中に求められていく

言葉を交わすことがもっと必要
温度差を無くすために言葉はどうあるべきか



【日本人はなぜ合理性と感情を分けようとするのか】

東:

日本人は合理的なことと感情的なことを切り離している感情的な共有は村社会の中で
その外では合理性、効率性にうるさくなる
むしろ合理性と感情を分けすぎていると思う

政府、合理的なデータさえ出せば、我々は責任を果たせた、という感じ
言葉は合理性だけでは完結しない
合理的なことを言えば人は説得されるわけではない
合理的なことを言ったとしても感情はこもってしまう
合理性プラス感情の部分まで含めたコントロールというのが言葉を使うということだが日本ではそうなってない

感情的な不安が高まっている
だから経済学者、科学者、政治家は合理的に説得しなければいけない、と言う
合理的なロジックだけでやろう、と思うこと自体非合理的


【Q1:ダウナーな一体感を共有すべき、というのは具体的に何をするの?】

東:

文学者がもっと役割を果たすべき政治・経済討論番組に入ったりとか

いずれモニュメント作ったほうがいいとは思う



【Q2:言葉はどう社会を変えるのか?】

和合:

2つのポイントがある
①日本語をもっと身近なものとして感じるために何が必要かを考えていく
政治家の言葉を信用できない、ということから言葉の衰退が起きている
それが反映されて詩の力もどんどん失っていった
心をつかめるような言葉をどれだけ語れるかというところに、言葉が社会を変えられるという我々の信用度が左右されていく 

「直ちに健康に被害はない、影響はない」じゃあこれからどうなるの?福島の人誰もが思った
それでどれだけ人の心を傷つけたか、私たちの気持ちを貶めているに気づかない政治家の言葉
政治はおもちゃじゃない、言葉だ。言葉に本気で取り組まないといけない
言葉が社会を変えるということを政治家がまず示して欲しい

②分かり合える言葉でみんなが話をする
それにどれだけ心をこめられるか
心を飾るとか、かっこいいことを言うとか…それに一生懸命になりすぎていた
言葉と心がつながっていけば、つまらない言葉でも気持ちは伝わる心を込めて言葉を使ってほしい


東:

国語教育を変えるべき政治家は日本の歴史をしらない
科学者はコミュニケーションが苦手
基本、教育
論理的な言語は人を説得する言語だ、ということを学ぶべき正しいことを言っていても、説得する部分が弱い


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震災関連の番組(海外に住んでいるので主にニコ動ですが)を色々見てきましたが、その中でも一番ズシッと重みを感じたのが、今回のニコ生思想地図

そこでちょっと話は飛びますが、最近一番ズシッときた映画は、『告白』
最近といっても、もう公開から1年経つのでしょうか。

実は、この映画にはニコ生思想地図との妙な共通点があることに気付かされたんです。

昨年の秋にストックホルム国際映画祭で『告白』が上映されたのですが、それに合わせて中島監督が来瑞(なんて言葉存在するのか)されました。私はボランティアとして幸運なことに監督のアテンドをすることになったため、作品について色々とお話を伺う機会がありました。

以前にもこのブログで紹介したのですが、『告白』に関する中島監督の発言で印象に残っているものを再度並べます:


・言葉はコミュニケーションのツールであるはずなのに、登場人物たちは自分に都合のいいことしか言葉にせず、相手を全く理解しようとしない。

・まわりに自分の素直な気持ちを伝えられる人がいなく孤独を感じながら闇の中にいる彼らの姿を描いたこの作品は、ある種のコメディと呼べるだろう。

・特に日本人は言葉というものに頼りすぎていて、感情などを相手に伝えることを疎かにしている。

・直接話すよりもメールのほうが気が楽だ、というのは臆病な証拠であり、コミュニケーションが下手くそだということ。

人間って結局自分のことがよくわかっていない


これを読み返してみると、ニコ生思想地図で語られていたことと重なる点が多く、ちょっとゾッとしてしまいました。もう少し具体的に重ねていくと、確かに『告白』では…


・言葉というものが「軽く」捉えられていたのでは。

・登場人物らは「何かを吐き出し、共有し、共感し…」というプロセスがないまま、バラバラになってしまった。

・殺害事件の後、「お前にとって本当に大切なものってなんなの?」という問いを登場人物らは突きつけられていた。

「追悼する、喪失感を受け止めるということが我々の文化の中に根本の部分で無い」というのは森口先生が辞めた後のあのクラスの生徒たちが異常なほどに明るい振る舞いで体現してくれた。

・ウェルテルの言葉が空っぽに聞こえた理由は「絶望を語らない方法で明るい希望を語ろう」としていたからかもしれない。

・登場人物らは、お互いが分かり合える言葉で会話をすることができていたのか。言葉に心をこめていたのか。


『告白』は現代日本の抱えるコミュニケーション問題の縮図を描いた映画だと私は捉えています。東氏と和合氏の、震災後のコミュニケーション問題に関する対談も踏まえた上で再度この映画を見ると、新たな収穫が得られるかもしれません。私はまた見てみようと思います。