二重被爆者であり、昨年の1月に亡くなられた山口彊さんを「嘲笑」するようなBBCのコメディ番組についてネット上で色々議論が飛び交っていますね。様々な論点があるので非常に興味深いです。ほんの一部ですが、気になったものを以下にまとめました:
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番組の会話を訳出した水川青話ブログ:
以下はBLOGOSより、この番組を取り上げた記事をそれぞれ一部抜粋してみました。
BBC「QI」の出演者たちは実際に何を言っているのか?これが「被爆を嘲笑」?
まずL-Starさんのブログ:
我々に必要なのは声を上げて非難するような大人げない行動ではない。低俗な笑いにはそれを上回るお笑いで返すゆとりであろう。
木走正水さんのブログ:
町村泰貴さんのブログ:
真面目な日本の人々にご注進申し上げたいのは、きちっと落とし前を付けさせた上でですが、こんなBBCの低俗番組にマジメに怒っても時間と思考の無駄というモノです、無視いたしましょう。
日本社会との英国社会の言論とかユーモアとかをめぐる一般的水準の違いが現れたものだと思う。
ESQさんのブログ:
ぜひ日本のメディアの報道を契機に、この問題を知った方には、番組の放送内容を観てもらい、実際に、どういう取り上げ方をしているのか、釈明が受け入れられるものかを自身で考えていただきたいです。
上記ブログ記事への反響に対して再度意見を述べたESQさん:
小林恭子さんのブログ:
まず、私が賛同できない見解は2つある。1つは、この問題が笑いに対する感覚の違いであるとし、文化の違いによるものという形で説明をつけてしまおうとするものである。 (中略)2つ目の賛同できない見解についてであるが、それは、今回の問題をきわめて短絡的に理解し、白人社会によるアジア蔑視思想によるものだとか、国粋主義的な主張である。
つまり、「ガハハ」と笑って(笑いたければー)、あるいは「フン、バーカ!」と思って、さっさと前に進むことである。
このジョークで気をもんで、抗議していたら、体がいくつあっても、たまらないーそれが英国である。
twitterからも、ほんの一部。
@ginkokobayashiさん:
@kazuhirosodaさん:
被爆者をジョークの対象にしてはいけないと、例え自分の中では思っていても、その価値観を共有しない人たちが世界にはいることを、認識することは必要。
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二重被爆の件。僕は火元の番組を観てないのでよく分からないけど、「私は日本人だから怒る権利がある」という具合に喜々として怒っている言説をネット上で見かけると、どうも違和感を憶える。911の時に「私はアメリカ人だから怒る権利がある」とアフガン攻撃を支持した米国人たちと重なる。
個人的には、初めて番組をYouTubeで見たときに感じたのは木走さんと同じく「こんなBBCの低俗番組にマジメに怒っても時間と思考の無駄というモノです、無視いたしましょう。」というものでした。被爆者の顔写真とキノコ雲の写真を背景に司会がアロハシャツを着ているというオープニングカットを見せられたら、怒りを通り越してただ呆れるばかりです。真剣に議論するほどの番組でもないと思いましたが。ただ、この番組に対して抗議をした人々が実際にいるわけですよね。そして怒りをあらわにした人も当然沢山いたかと思いますが、「そこで感情的になっても…。」と私は思ってしまいます。感情的になると多様な意見を受け入れられなくなり、思考停止に陥ってしまう恐れがあるので…。これはメディアリテラシーを高めるという意味でも重要なポイントかもしれません。
『ご臨終メディア』という本で、当事者ではないのに過剰な被害者意識を持ってしまう人々について述べている部分があったので抜粋します。森達也氏のオウム真理教を取り上げたドキュメンタリー「A」のダイジェスト版をテレ朝で流した時に来た抗議について(p107):
森 :オウムの信者が笑っている顔を、なんでテレビ朝日は流すんだって。
森巣:はははは。彼ら彼女らだって、それはメシを食うし笑うでしょうよ。
森 :被害者の遺族がこれを見たときのことを考えろという理屈らしい。
森巣:わからないのは、なんであんなに被害者に感情移入するんですかね。あたかも自分が被害者みたいになって社会正義を叫ぶでしょう。一方、たとえば従軍慰安婦となった被害者たちは無視する。
状況は全く違うにせよ、「被害者に感情移入」という点では今回のBBCの件に似ている気がします。
原爆というテーマをあのような形で取り上げることは不適切だったにせよ、大事なのは原爆に対する言論が生き続けることではないでしょうか。ネットの時代だからこそ、尚更。原爆の記憶を日本人が変に神聖視せずに、オープンに世界中の人々と議論するべきなのでしょうね。(…とは言いつつも日本のネット言論が日本語という言語空間に閉じてしまっているのは勿体無いですが…)