2012/07/12

恐怖の文化とアテンションエコノミーとソーシャルメディアの複雑な絡み合い。



若者のソーシャルメディア利用について研究しているアメリカ人のdanah boyd氏(自分自身をgeekと呼んでいるような方です)の面白い講演@webstock 2012を聞いたので、彼女のブログに載っていた未編集のスクリプトも参考にしながら、メモをシェアしたいと思います。(ちなみにSXSW 2012でも同内容の講演を行ったそうです)

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boyd氏3つの主張:

1. 私たちは「恐怖の文化」の中で生きている
2. アテンションエコノミーは恐怖の文化が育ちやすい環境を用意している
3. ソーシャルメディアはアテンションエコノミーを刺激している



【恐怖の文化】


・「恐怖の文化」とは、マーケターや政治家、メディアなどが民衆を統制(管理)するために恐怖を利用している状況を指す。恐怖は人を誘惑したり、動機付けたり、抑圧したりすることもできてしまう。例えば、テロリズムとは、政治的目的を達成するために恐怖を計画的に利用すること。「恐怖の文化」は、恐怖が人々の世界観を形成するほど広まった時に出現する。どのメディアも、恐怖を生産することに活用されてきた歴史がある。ソーシャルメディアについても同じことが言える。

「恐怖」は、人々の関心を集め、命令に従わせるために役立つ。理由の一つは、人間はリスクを評価することや、恐怖を利用しようとする行為に冷静に対応することが、非常に苦手だから。

・ユースカルチャーを研究する者としてよく親から聞かれることは、子どもを守るベストな方法とは何なのか。彼らが聞きたい答えは「Facebookを使わせるな」とか「携帯を渡すな」かもしれないが、私の答えはこれ:「車に乗せるな」。誰が運転していようと、車の中ほど危険な場所は無い。だが親は、車は自分がコントロールしているから安全だと「感じて」いる。けどインターネットとなると、親はコントロールするのが難しいし、仕組みもよく分からないから安全ではないと「感じて」しまう。恐怖とは、リスク評価に基づくものではなく、リスクを感じることから生まれる。

・社会に広がってしまう恐怖の厄介な所は、統計データで立ち向かうことが出来ないこと。どんなに教養のある親でも、データに安心を求められない。恐ろしい話を伝えられれば、それがたとえ異例だとしても、誰もがパニックに陥ってしまう。恐怖を引き起こすことは非常に簡単。そしてその恐怖心を落ち着かせることは物凄く大変なのである。


【アテンション・エコノミー】


・Herbert Simon氏(1970年代):「情報は、受け手のアテンションを消費している。よって情報過多という状況は、アテンションの不足を意味する」

・ニュースメディアはアテンション・エコノミーと密接に絡み合っている。新聞は見出しで読者のアテンションを獲得しようとする。テレビやラジオ局はチャンネルを変えられないよう視聴者の関心を引こうとする。

・ソーシャルメディア上では、未編集だったり台本の無いものも含め、大量の情報が流れている。ネットを利用するということは情報の海の中で泳いでいるようなもの。

・爆発的な情報量に対してどんな感情を抱こうと、一つ明確なことは、その情報量が近いうちに減ることは無いだろうということ。

・ここで「恐怖」の話に戻るが、人々のアテンションを得るために、生物学的なメカニズムである「恐怖」をツールとして利用しようとする人がいる。

・私たちは、親しい人から受け取る情報を信じやすい。ソーシャルメディア上の「恐怖」はマーケターや政治家だけではなく、誰もが利用しやすいようになっている。

・若者文化の研究者としてよく目にするのは、親が子どものアテンションを得るために恐怖を使ったり、あるいは若者が仲間の興味をひくために恐怖を利用するという状況。アテンションは、現代社会の通貨(currency)となっている。


【ラディカル・トランスペアレンシー
(Radical Transparency)】


全ての情報を公に出せば人々はより正直になるという考えが、ラディカル・トランスペアレンシーである。この考え方の支持者の多くは、政府や芸能人、企業などの権力を握った人物・団体がトランスペアレントであるべきだと主張している。

・しかし、誰もが、そして何もかもが公になることでより良い社会が築けるのか?人々の寛容度は高まるのか?

・情報というのは平等に作られているわけではない。人々の関心を引く情報もあれば、そうでない情報もある。多くの場合、感情的なリアクションを引き起こす情報にアテンションが集まる。残念ながら、特権的な地位にいる人よりも、社会から抑圧され、目立ってしまっている人ほど、ラディカル・トランスペアレンシーやアテンション・エコノミー、そして恐怖の文化による被害を受けやすい。ソーシャル・エコシステムの中であなたがどのようなポジションにいるかによって、ラディカル・トランスペアレンシーのコスト(負担)は変わってくる。

・インターネットは私たちが見たいものを可視化するが、見たくないものも可視化する。自分とは違うタイプの人間と接触する可能性もある。これは、多大な恐怖を生み出す原因となりうる。


【ネットワークの力】


・マスメディア全盛時代、「恐怖」は放送によって広められた。今でも私たちはマスメディアが煽る不安と付き合っている。しかし、より陰湿な形での恐怖の利用は、実は私たちが作り上げているソーシャル・ネットワーク内で行われている。

・私たちが作るテクノロジーは市民生活(public life)を形成しているが、同時に、市民生活もそれらのツールを形成している。そんな市民生活は、好ましくない側面を抱えていたりもする。もし私たちが求める文化・生活を作るためにテクノロジーを活用したいのであれば、私たちは様々な文化的課題と真摯に向き合う必要がある。

ソーシャルメディアは、もう破壊力を持った存在ではなく、status quo(現状維持)の一部となっている。そんなエコシステムを受け入れる準備が私たちにはできているのだろうか?皆さんと一緒に考えたい。


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ソーシャルメディア(あるいは広い意味でインターネット)について語る時、アカデミアの学者はユートピア派(例:「ソーシャルメディア革命が起きた!」)とディストピア派(例:「ソーシャルメディアを監視することは簡単。」)に分かれる、ということをよく聞きます。けれども、boyd氏はあえてどちらの立場にも立たず、デザイナーやプログラマーが多数いる客席に対して、「私たちの作るテクノロジーは恐怖の文化をどう助長しているのか?もしくはそれに立ち向かうことができているのか?私たちにはどんな責任があるのか?また、どんな行動を取るべきなのか?」という建設的な問いを投げかけています。

私はデザイナーでもプログラマーでもありませんが、ユーザーという立場からでも、似たような問いかけをすべきだと思います。恐怖の文化から完全に逃れることは不可能だと思いますし、例えば3.11のような非常時には、常に合理的で正しい判断を下せるわけではありません。しかしそんな状況下にいたとしても、悪影響を最小化するにはどうすればいいか?ソーシャルメディアの一員として担うべき責任は何なのか?どんな行動を取るのが一番スマートか?など、色々問いかけるべきことがある気がします。(このあたり、具体的な提言については荻上チキ氏の検証 東日本大震災の流言・デマがおすすめです)


boyd氏の講演は非常に興味深かったものの、アイディアが沢山盛り込まれていて、未だに私自身うまく処理しきれていないような気がしています…。時間を置いて、またもう一度講演を聞いてみようと思います。けれども、「恐怖の文化」「アテンション・エコノミー」「ラディカル・トランスペアレンシー」の三つは、決して新しい言葉ではないにせよ、現代のメディア文化(特にソーシャルメディアがメインストリームメディアになってきている状況を踏まえると)を捉える上でとても大事なキーワードだと思うので、頭の片隅に置いておこうと思います。


最後に、この三つのキーワードを非常に上手いこと捉えた、アナタが主役のショートフィルムをご覧頂ければ幸いです(画像をクリックすると別リンクへ飛びます)。確実に、背筋が凍るかと。そして「恐怖の文化」「アテンション・エコノミー」「ラディカル・トランスペアレンシー」についても考えさせられます。